図鑑などで名前は知っているけれども実物を見た事がないという魚の代表が、この”ラスボラ”・ソムフォングシィだろう。
現在はラスボラ属(Genus Rasbora)からトリゴノスティグマ属(Genus Trigonostigma)に移されているが、本属の代表種であるヘテロモルファやエスペイも未だに通称名としてラスボラが使用されているので、ここではラスボラと呼ぶ事にする。何も魚類学の論文ではないので、難しく考える事もないだろう。 本当の学名は違う属だったなくらいに覚えておいてもらえばよいだろう。
この”ラスボラ”ソムフォングシィ、30年程前には入手はそう難しい魚ではなかった。当時も本種だけでの入荷はほとんどなく、ボララス・ウロフタルモイデスが入荷すると、そこに混ざって来る魚だったのである。多い際は半数が本種だったという事もあったようだ。ところが、最近ではボララス・ウロフタルモイデスはコンスタントに入荷しているものの、本種が混ざる事は皆無である。
それにはある理由があるのだ。昔はボララス・ウロフタルモイデスはタイのバンコク近郊で採集されたものが、日本へ送られていた。ところがタイの南部で採集が容易な生息場所が見つかった事から、現在ではほぼ100%がタイ南部で採集された魚が日本へ送られている。本種はタイ南部には生息していないため、そこで採集された魚に混ざる事はないのである。
マニア心は複雑なもので、ある時は欲しがらないが、ないとなると欲しがるものである。本種が市場に入らなくなると、小型美魚マニアは何とか本種を入手できないかと躍起になったものである。それはこの原稿を書いている自分もそうで、タイに魚の取材へ行く度に何とか本種の生息場所の情報を得ようとしていた。ボララス・ウロフタルモイデスに混ざっていた事から、まずはウロフタルモイデスをバンコク近郊で探し回っていたものだ。何カ所かボララス・ウロフタルモイデスの生息場所は発見したが、本種を見つけるには至らなかった。
本種はラスボラの仲間としては繁殖が比較的容易である。自分は25年程昔にも繁殖には成功している。本属の魚はクリプトコリネなどのように葉の広い水草の葉裏に卵を産み付けると思われているが、本種は少々異なっている。確かに水草などに卵を付着させる繁殖方法であるが、特に広い葉を持つ水草でなくても産卵する。ウィローモスなどの茂みでも十分である。何もない水槽の場合、スポンジ・フィルターのパイプなどに産み付ける事もある。ふ化した仔魚は最初はインフゾリアなどの餌が必要だが、数日でアルテミアを食べる事ができるようになるので、その後の管理は楽である。
自分的には非常に思い入れがあり、いつかはタイの生息場所を発見するのが夢であったのだが、昨年の9月、以前本種を分けてもらったN氏から、生息場所を発見したので、タイに来たら一緒に採集に行こうとの有り難いお誘いを頂いた。N氏の知り合いの大学の水草の研究者達が調査の際に見つけた魚の同定を氏にお願いしたのがきっかけのようである。ちなみにこのN氏はベタ・マハチャイエンシスを最初に発見したというバリバリの熱帯魚好きである。
数年程前に、知り合いのN氏に本種のペアを分けてもらうチャンスがあった。
彼は本種を見つけたドイツ人から繁殖した魚を分けてもらったそうだ。その際にまだ本種は絶滅した訳ではなく、ひっそりとどこかに生息しているのが判り安心したものである。
頂いたペアで繁殖も成功していたのだが、仕事柄家を空ける事が多く、残念ながら絶やしてしまった。
バンコクから郊外へ向かうと、辺りは水田や湿地が目立つようになってきた。増水の影響か道路まで冠水している場所もある。普段だったら採集なんてしないような、民家近くの水田脇で車が停まった。ここがソムフォングシィの生息場所だそうだ。浮き稲と言い、増水時には1m以上の高さに達する特殊な稲の植わった水田で、スイレンなどの他の水草も豊富な止水域である。
N氏は自分の眼で本種が泳ぐ姿ぐ姿を見るのが夢だったと言い、やや濁った水に水中眼鏡を付けて魚をチェック。氏の友人も一緒にまずは魚探し。ほどなくして氏がソムフォングシィを発見!自分は待ちきれずにそこに網を入れると、多数の魚と共に小型のソムフォングシィの姿が。キンセン・ラスボラ、ラスボラ・ルブロドーサリス、ラスボラ・スピロセルカなどの小型の魚と一緒に生息して群れになっているようだ。もちろんボララス・ウロフタルモイデスも一緒である。それにしても生息密度は低い。魚の採集に関しては腕のある人間3人が丸1日かけて採集して約20匹しか採集できなかった。N氏の話しによると、今は水位が高いので生息密度が低いが、乾期になり水位が下がれば、水田のような場所から水路のような場所に生息場所が変わり、もう少し生息密度は上がるそうだ。
ちなみにこの時の採集魚はN氏と自分で半分ずつ分けて持ち帰ったが、自分のもN氏のも多少スレて死んでしまい、最終的には7匹ずつとなっている。うちで飼育している7匹は、この原稿を書いている時点でやっと雌雄の判別が可能になったが、7匹のうち雌は1匹だけである。N氏が飼育している7匹も雌は1匹だけだそうである。この雌雄の偏りは繁殖させても同様で、N氏のところでも知り合いのドイツ人のところでも雄が多く雌が少なく偏ってしまうそうだ。雌が多ければ、多数の子供を得る事が可能なのだが、少ないと繁殖できる数も限られてしまう。現在のところ、採集魚が市場に出回る可能性は、ここに書いた様な理由で非常に難しい。近い将来、繁殖魚が出回るようになり再び多くの人達に親しまれるようになる事を祈りたい。
自分は長年の夢であった”ラスボラ”ソムフォングシィの群れ写真を撮る事ができて非常に満足である。アクアリウムの趣味というのはお金を出せば何でも簡単に手に入るような浅いものではない。長年待った末に達成できた喜びというのは何事にも代え難い。情熱を持ってすれば夢は叶うものであるが、だんだんと夢が減っていくのも複雑な心境である。